幕末の思想家横井小楠


坂本龍馬が師と敬い、勝海舟が恐れた鬼才!
勝海舟曰く「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠と西郷南洲だ」。日本史の教科書でもろくに取り上げられず、幕末もののドラマで登場することもほとんどない。しかし小楠こそ、坂本龍馬や西郷隆盛をはじめ、幕末維新の英傑たちに絶大な影響を与えた「陰の指南役」であった。早くから現実的開国論を説き、東洋の哲学と西洋の科学文明の融合を唱え、近代日本の歩むべき道を構想した鬼才。

横井小楠―維新の青写真を描いた男 (新潮新書)
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熊本城下、内坪井に生まれる。開国論を唱える思想家として知られる。安政5年から文久3年にかけて、越前藩に招かれた。藩主、松平春嶽の参謀として藩政改革をすすめる。

その後、松平春嶽の政治総裁職の顧問として、「国是七条」を建議し、参勤交代制の廃止など、幕政の改革を進めるが、横井小楠襲撃の、いわゆる「士道忘却事件」で、肥後藩より士籍剥奪の処分を受け、志半ばで、肥後沼山津の「四時軒」へ引きこもる。

維新後は、士籍を回復され、新政府の参与(国務大臣)として登用されたが、明治2年、京都で、尊攘派浪士に暗殺された。

ぺリーの来航、ロシアやイギリスなどによる条約締結の要求、尊王攘夷運動の広がりの中で、幕府の閉塞状況を、世界的な情況の中で、捉え直そうとした。その開明さは、勝海舟、坂本竜馬らに影響を与えたが、肥後藩では却って危険視されたのか、重用されなかった。



坂本龍馬とは都合6回会っている。

第1回は、松平春獄の紹介で江戸で、文久2年(1862)8月。

文久3年(1863)5月19日、同年7月下旬は、福井で。

4回目は、文久4年(1864)2月、勝海舟の遣いで、龍馬、小楠を訪ねる。対談した11畳の客間が四時軒に残っている。龍馬の話を聞き、「海軍問答集」を執筆することなる。

5回目は、元治元年(1864)4月、横井大平ら3名を、勝海舟に入門させる。

6回目は、慶応元年(1865)5月、、二人は意見の対立をみた。小楠の構想には長州藩は念頭になかった。一方、龍馬は、元治元年8月、西郷と意気投合、長州藩の薩摩不信を除去するよう仲立ちしていた。龍馬は、「薩長同盟」(慶応2年1月成立)の推進に対し、小楠に見守り助言して欲しかったのだが、当時の小楠は、沼山津蟄居中で、その構想を云々する国内事情に通じてなかった。そういう訳で、二人は訣別に至るが、生涯、龍馬は、小楠を尊敬し、明治維新政府の参議に推薦している。

この時、話が人物論に及んだ。小楠が龍馬に、「俺はどうだ」と尋ねると、龍馬は、「先生は二階に座ってきれいな女どもに酌でもさせて、西郷や大久保がする芝居を見物なさるがようござる。大久保どもが行き詰まったら、ちょいと指図してやって下さるとよございましょう」と答えた。龍馬の「舟中八策」には、小楠の「国是七条」等の主義主張が、多く取り入れられている。
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